リンゴォblog

男の世界へようこそ

恩返しの不可能性あるいは森下システム

社長業を長く続けていくためには、
師匠でもメンターでも呼び方はなんでもいいのだが、
自分が100%尊敬して、相談できる存在が必要不可欠なことは
経験上理解していたつもりですが、それがなぜかは、
どうにも上手く説明できないでいたのですが、
今日の森下九段と増田四段の師弟対決と
そこで語られた「恩返し」というキーワードで少し分かった気がした。

棋界における「恩返し」

よく言われるのが「弟子が師匠に勝つことが恩返し」だと。
ただこれは反論も多い。師弟対決が実現する以上、
師匠も弟子と全くの同じ土俵で闘っている現役バリバリな棋士だ。

それなのに弟子に負けて「いやぁ恩返ししてもらえた」とか言う時点で、
その棋士は既に現役棋士としての人生は終わっている。
(別にそれが悪いことじゃないけど)

僕にも経験があるけれど、少しの喜びと抑えても抑えても込み上げる
悔しさが湧いてこなければ、それはもう現役ではない。

別の「恩返し」の定義としては、
「師匠が達成できなかったことを達成すること」だとするものがある。
ほぼ同義で「師匠が負かされた棋士に勝つこと」だとするものもある。

これの典型例で言うと、ヴォルク・ハンエメリヤーエンコ・ヒョードル
師弟関係が挙げられる。
当時リングスに参戦していたヴォルク・ハンは、まさにそのときに最強への
階段を駆け上がっている最中のアントニオ・ホドリコ・ノゲイラ
敗北を喫した。
その際に
「私は君に負けてしまったが、いずれ私の狼が君の首を狩るだろう」
ノゲイラに告げ、その数年後ヴォルク・ハンの弟子である、
「六十億分の一の男」ヒョードルノゲイラをPRIDEヘビー級王座から
引きずりおろした。

果たしてこれが、「恩返し」なのだろうか。
これを以て、師弟のあいだの恩のやり取りはチャラになるのだろうか。
チャラになるということは師弟関係ではなくなるということだろうか。
師匠と弟子というのは、弟子が師匠から与えられたミッションをクリアできれば、
その時点で解消されるものだろうか。

もしそうだとしたら、弟子とは師匠の欠落した自尊心を埋め合わせるための
ツールということに堕してしまわないか。
どうにも腑に落ちない。

恩返しの不可能性

そもそもなんだけれど、「弟子に恩返しして欲しいなー」と本気で
願っている師匠はいるのだろうか。
「子どもに恩返しして欲しいなー」と本気で思っている親っているのだろうか。

「恩返し」というのは、
恩を与えた側(師匠・親)には「恩返し」をされたいという願いなんて存在せず
恩を受けた側(弟子・子ども)が一方的に、「恩返し」をしたいと願う形で存在し、
それが故に、本質的には「恩返し」というのは不可能だと考えると、
すっきりする。
だって、片方には概念が存在しないんだから、双方が合致した「恩返し」が
できるはずがない。

おいおい、だったら「恩返し」をしたいと願う弟子はいつまで経っても、
「恩返し」ができないんじゃないかと。

たぶん、その通り。
そして、それこそが、何かを長く続けていくためには師匠という存在が
必要になる理由になるのだ。

「自分は与えらたものをお返しし続けないといけない」
「まだまだお返し足りない」
という還元の気持ちが「社会」とか「世の中」という概念的なものだけだと、
しんどいときには支えになりにくい。
(よっぽど使命感の強い人ならいざ知らず)
具体的な師匠の顔を思い出して、「恩返し」をしなければならないという想いが
ギリギリのところで踏ん張る力を与えてくれるのだと思う。

現代矢倉の思想 (未来の定跡)

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