リンゴォblog

男の世界へようこそ

三木谷オーナーの現場介入あるいはMark Cuban

先日、楽天イーグルスの田代コーチがシーズン中に辞任したことを
契機に広がった三木谷オーナーの現場介入ですが、
上の記事にあるようにほんとだったんですね。

やまもといちろう氏も仰っていますが、別にオーナーがちゃんと
試合を見て、現場を見ている限りにおいて、口を出す、というか
指示を出すのは特に変なことじゃないだろうと思いますが、
まぁ古い体質の世界ですから、球界出身者で楽天球団に入ろうとする人は、
減るか限定されるかってことになるんでしょうかね。

IT事業で成功し、スポーツ球団経営に関わるという点で、
個人的にDallas MavericksオーナーのMark Cubanは大好きです。
テクノロジーにどんどん投資して、スポーツ×テクノロジーの
可能性を開拓する意思に富むと同時に選手待遇も厚く、
さらに何より、チームのジャージーを着てコートサイドで、
ギャーギャー言いながら熱狂的に応援する姿を見れば、
彼が現場にどれだけ口出そうが、なんかもう憎めないわけです。

How to Win at the Sport of Business: If I Can Do It, You Can Do It (English Edition)

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blog maverick | the mark cuban weblog
blogも面白い。

三木谷オーナーも東京や海外から指示出すくらいなら、
毎試合コボスタのバックネット裏でギャーギャー応援するくらいだと、
盛り上がるのになぁと思ってしまう。

もちろん、Mark Cubanと違って、あくまで本業がお忙しい中での
球団経営ですので、難しいと思いますが、
Mark Cubanというよりは、「平成のナベツナ化」してしまい、
本来、地域社会に愛されて支えられるべき球団経営が、
結局は独裁者のモノに堕してしまうのではないかという
ほんのりとした心配を抱いてしまいもします。

僕の愛する読売ジャイアンツは、地域社会に根付いた球団ではなく、
「昭和」という概念をコミュニティとする特殊球団だから、
ナベツネ」なるものが機能してきたわけで。
(この路線も賞味期限が近付いてるようだけれど)

混沌とするセリーグの優勝争いと共に、
今後の球界ヘゲモニー闘争も見逃せない。

『村上さんのところ』あるいは壁と卵

村上春樹の著書をひとにおススメするために書評を書くほど
意味のないことはない。

誰かにどれだけ薦められても、読むべきタイミングでないときには
ひとは村上春樹の著書を読もうとしないし、
誰に薦められなくても、然るべきタイミングが訪れれば、
まるでそれが運命だったように自然と村上春樹の著書を手に取る。
自明だ。

村上さんのところ

村上さんのところ

ちょうど人生の半分くらいを「村上主義者」として、
過ごしてきた私にとって、長編小説以上に大好物なのが、
村上春樹さんのエッセイが先日発売された。

村上春樹さんが期間限定サイトに送らてきた質問に、
かたっぱしから答えていき(3716回答に及ぶ)、
その中から厳選された473のやり取りが収録されている本著。

それぞれの人生の中における「村上春樹

本著に収録されている質問と回答を読んでいて、驚くのが、
その質問者の年齢層の広さだ。
下はひと桁代、上は70歳くらいまでまさに老若男女が、
それぞれの質問を村上春樹さんにぶつけている。

質問内容には何の統一性もないけれど、
それぞれがそれぞれの人生の中で必要なときに村上春樹さんの
著書を手に取り、それぞ人生の大切なターニングポイントであったことが
たくさんの質問、その全体からなんとなく浮かび上がってくる。

「ものごとにはバルクで処理して初めて意味を持つことがある」
というその言葉通りである。

「壁と卵」

これだけ多くの質問があるので、もちろん軽い質問や、
ふざけた回答もあるのだけれど、2ページに1つくらいの割合で、
村上春樹さんの創作観の根幹に触れられるようなものもある。

特に心に残るのが、家族や恋人など愛する人を失った悲しみに
関する質問に対する、村上春樹さんの一貫した優しいスタンスだ。
何か具体的で実用的なアドバイスをしているわけではないけれど、
すっと安心するような不思議な力がある。

「出口が見えないと苦しんでいる人に、出口はあると思ってもらえるような
ものを書いていきたい」というような答えは、
胸が詰まった。

エルサレム賞の授賞式で語られたあまりにも有名な「壁と卵」のはなし。
突然、壁が悪意を持って個人に迫るとき、個人は本当に無力だ。
これまで必死になって築いてきたものが、あまりに理不尽なかたちで、
すべて破壊されてしまうように感じることがある。

国家と個人という大きな文脈でも、たとえば会社と従業員という
小さな文脈でも、「壁」に対して「卵」は無力だ。

どうしても「壁」をぶっ壊すという方向でものごとを考える僕にとって、
ただ「卵」により添って、味方になるということの意味を考えされる。

「出口が見えない」と苦しんでいる友達がそばにいたら、
そっとこの本を渡してみるといいかもしれない。
きっと、然るべきタイミングで読む日が訪れて、
少しだけ元気とか勇気とかが湧くんじゃないだろうか。

恩返しの不可能性あるいは森下システム

社長業を長く続けていくためには、
師匠でもメンターでも呼び方はなんでもいいのだが、
自分が100%尊敬して、相談できる存在が必要不可欠なことは
経験上理解していたつもりですが、それがなぜかは、
どうにも上手く説明できないでいたのですが、
今日の森下九段と増田四段の師弟対決と
そこで語られた「恩返し」というキーワードで少し分かった気がした。

棋界における「恩返し」

よく言われるのが「弟子が師匠に勝つことが恩返し」だと。
ただこれは反論も多い。師弟対決が実現する以上、
師匠も弟子と全くの同じ土俵で闘っている現役バリバリな棋士だ。

それなのに弟子に負けて「いやぁ恩返ししてもらえた」とか言う時点で、
その棋士は既に現役棋士としての人生は終わっている。
(別にそれが悪いことじゃないけど)

僕にも経験があるけれど、少しの喜びと抑えても抑えても込み上げる
悔しさが湧いてこなければ、それはもう現役ではない。

別の「恩返し」の定義としては、
「師匠が達成できなかったことを達成すること」だとするものがある。
ほぼ同義で「師匠が負かされた棋士に勝つこと」だとするものもある。

これの典型例で言うと、ヴォルク・ハンエメリヤーエンコ・ヒョードル
師弟関係が挙げられる。
当時リングスに参戦していたヴォルク・ハンは、まさにそのときに最強への
階段を駆け上がっている最中のアントニオ・ホドリコ・ノゲイラ
敗北を喫した。
その際に
「私は君に負けてしまったが、いずれ私の狼が君の首を狩るだろう」
ノゲイラに告げ、その数年後ヴォルク・ハンの弟子である、
「六十億分の一の男」ヒョードルノゲイラをPRIDEヘビー級王座から
引きずりおろした。

果たしてこれが、「恩返し」なのだろうか。
これを以て、師弟のあいだの恩のやり取りはチャラになるのだろうか。
チャラになるということは師弟関係ではなくなるということだろうか。
師匠と弟子というのは、弟子が師匠から与えられたミッションをクリアできれば、
その時点で解消されるものだろうか。

もしそうだとしたら、弟子とは師匠の欠落した自尊心を埋め合わせるための
ツールということに堕してしまわないか。
どうにも腑に落ちない。

恩返しの不可能性

そもそもなんだけれど、「弟子に恩返しして欲しいなー」と本気で
願っている師匠はいるのだろうか。
「子どもに恩返しして欲しいなー」と本気で思っている親っているのだろうか。

「恩返し」というのは、
恩を与えた側(師匠・親)には「恩返し」をされたいという願いなんて存在せず
恩を受けた側(弟子・子ども)が一方的に、「恩返し」をしたいと願う形で存在し、
それが故に、本質的には「恩返し」というのは不可能だと考えると、
すっきりする。
だって、片方には概念が存在しないんだから、双方が合致した「恩返し」が
できるはずがない。

おいおい、だったら「恩返し」をしたいと願う弟子はいつまで経っても、
「恩返し」ができないんじゃないかと。

たぶん、その通り。
そして、それこそが、何かを長く続けていくためには師匠という存在が
必要になる理由になるのだ。

「自分は与えらたものをお返しし続けないといけない」
「まだまだお返し足りない」
という還元の気持ちが「社会」とか「世の中」という概念的なものだけだと、
しんどいときには支えになりにくい。
(よっぽど使命感の強い人ならいざ知らず)
具体的な師匠の顔を思い出して、「恩返し」をしなければならないという想いが
ギリギリのところで踏ん張る力を与えてくれるのだと思う。

現代矢倉の思想 (未来の定跡)

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